三年前のことになるが、没後400年を記念して長谷川等伯展が関西では京都国立博物館で開催された。松林図屏風が見られるまたとない機会であったことから勇んで出かけたのだが、七条京阪の駅にまで達するかと思うほどの人の列を見て、びっくりして出直すこととした。数日後、少し早起きして開館時間に合うくらいの頃合いで行って、松林図屏風の前で大変幸福な時間を過ごしたことを思いだす。
その長谷川等伯を描いた小説が近年二冊出版された。一冊は2008年の萩耿介による「松林図屏風」で、もう一冊は昨年の安部龍太郎による「等伯」である。どちらも大変面白い小説で、前者は第2回日経小説大賞を、後者は第148回直木賞を受賞している。
「松林図屏風」は等伯の上洛後から没するまでの期間の彼と息子久蔵の二人の歩みがパラレルに描かれていると言える。従って、二人で手がけた祥雲寺の障壁画の場面で佳境を迎えて、松林図屏風の製作は晩年久蔵も妻も亡くし無常観に浸りつつあった等伯に、同じような心境の元武士である一商人が依頼したものとの設定がされている。これに対して「等伯」は能登の七尾時代から上洛、そして晩年までを描き、上下巻合わせて700頁あまりのさしずめ16世紀後半のクロニクルのようになっている。そして、クライマックスは祥雲寺の障壁画よりも、松林図屏風を描き披露する場面にある。ここでは、最近読んで記憶に新しい安部龍太郎の「等伯」について少し書き留めたい。
長谷川等伯について歴史上通説となっているのは、能登の七尾に生まれ、長谷川家に養子入りし、各地の仏絵を描いて北陸で仏絵師として名が通っていたが、33才頃上洛して、51才頃大徳寺三門の壁画で評判となり、祥雲寺の障壁画を息子久蔵と共に手がけて狩野派を凌ぐ名声を博したものの久蔵を亡くし、50代後半で日本絵画史上最高傑作とも称される松林図屏風を描いたというものである。
「等伯」では、主君畠山家再興をはかる兄の企みに加担したばかりに、義父母を亡くした等伯は七尾を追われるようにして京に出る。途中山越えで、比叡山焼き討ちを挙行した信長の手の者に追われている僧と幼子を救うのだが、この幼子は関白近衛前久の実子であり、僧はその後京都所司代となる前田玄以であった。これが後の等伯の運命を左右することになる。
入洛から大徳寺三門の壁画で有名となるまでの約17年間は資料がなく彼の空白期間となっているのだが、「等伯」ではこの間近衛前久や狩野松栄と会い、一時期堺に住むことで千利休や今井宗久らの知己も得て、再び京に戻ってからは利休を通じて大徳寺の春屋宗園とも出会い、やがて三門の壁画を手がけることになる。仙洞御所対屋の襖絵の仕事を狩野派の暗躍によって取り消された等伯であったが、前田玄以の後ろ盾により、秀吉の亡き子鶴松の菩提を弔うための祥雲寺の障壁画一切の仕事を任せられる。これを久蔵と共に成し遂げた等伯は狩野派をも凌ぐほどの勢いを得るが、秀吉の朝鮮出兵に伴う福岡の名護屋城の襖絵制作のために現地に赴いた久蔵が、狩野派の工作により命をおとす。
久蔵を失った等伯は事の一切をしたためた訴状を秀吉に上申するが、逆に怒りを買う。近衛前久のとりなしにより、絵の良し悪しで助命の可否を決することになり、等伯は連日の勤行と三日三晩不眠不休の後、誰も見たことのない水墨画を仕上げる。
秀吉はじめ有力大名が居並ぶ中で披露された松林図は見る者の心を揺さぶらずにはいられなかった。戦国の世を血まみれになって生き抜いてきた者たちが、六曲一双の水墨画に心洗われ、欲や虚栄をかなぐり捨てて在りのままの自分に戻っている。等伯は訴状のことは忘れ、久蔵への何よりの供養ができたような気がした。
年老いて一線を退いた等伯が、徳川幕府の招請を受け、江戸に赴く場面で小説は閉じられている。
さて、松林図屏風である。秀吉を筆頭に居並ぶ大名を向こうにまわして、一世一代の勝負に出る等伯、そして水墨画に涙する兵どもというのは小説のストーリーとしては面白いのだが、黄金の茶室という悪趣味な性癖を持つ秀吉や戦に明け暮れた戦国大名たちに果たして松林図がわかるのだろうか。ジャズが聞こえてくる絵と評したのは橋本治だが、わたしの頭の中にもマイルス・デイビスのトランペットや、晩年のビル・エバンスのピアノの音が浮かんでは消えてゆく。
これは史実に反するのだろうが、わたしには妻も子も亡くした等伯が一人故郷の七尾に帰り、来し方を振り返って描いた絵のような気がしてならない。
(2013/05/15)