土浦稲城の洛東アパート

 土浦亀城の名はよく知られているが、土浦稲城はその実弟である。1902年生まれで、遠藤新に師事した後独立するが、亀城の事務所設立にあたってそちらに移り、その後兄の設計活動を支えたと言われている。


 土浦稲城は自らの事務所設立後間もない1930年代の初めごろ京都の北白川に京大生向けの学生アパートとして洛東アパートを設計するのだが、この建物はその後中国人留学生用の光華寮と名前を変え、今から数年前最高裁の判決が出るまで、いわゆる光華寮事件として世に知られることとなる。つまり、土浦稲城の洛東アパートとは、土浦亀城の弟が設計した光華寮ということになる。


 いわゆる光華寮事件をかいつまんで述べると、戦前の京都帝国大学が洛東アパートを中国人留学生向けの学生寮として借り上げ光華寮と命名、戦後当時の中華民国駐日代表団がこれを購入したのだが、その後、文化大革命をはじめとする中国の政治的混乱の影響から、中華民国が学生の立ち退きを求めて裁判をおこしたことから、中華民国の法律上の当事者適格の判断が争われるというややこしい問題となって、1967年の裁判開始から40年後の2007年になりやっと最高裁の判決が示されたというものである。


 政治上、法律上の問題はさておき、この洛東アパートは現在立ち入り禁止となり、廃墟同然の無残な状態ではあるが、年月を経た建物の持つ有機的な匂いを差し引いたとしても、なかなか魅力的な建築なのである。初期モダニズム建築であることは一目瞭然であるが、写真でわかるように、バルコニーのうすいスラブとスチールの手摺の組み合わせが軽やかで、全体がセットバックしていく西側は、バルコニーと同様のうすいスラブとスチールの手摺からなる外部階段がこれにシンクロして、極めてリズミカルな印象を与えている。


 東翼の南面に取り付けられている外部階段は、設計時のパースには見られないことや、最上階の踊り場が位置する外壁部分は窓が塞がれた痕跡が見られ、踊り場と外壁が一体化していないことなどから、後の増築かもしれないのだが、バルコニーや踊り場のうすいスラブとそれを支える鉄骨はなかなか絶妙で、普通こんなことはしないであろうがおかしな感じはなく、むしろ手摺や階段のスチール部分とあわせて、全体として軽快な表情にまとまっているのである。


 それにしてもこの階段の段板はどうであろうか。角材か丸鋼か判然としないが、細い部材をササラ間に4本渡しただけで、部材間はスケスケなのである。エキスパンドメタルを貼った外部階段というのは工場などで時々お目にかかるが、あれも高いところだとちょっと気持ちの悪いものであるのに、こんな段板では、避難しようにも回れ右して戻ってしまうのではないだろうか。これだけ意匠面に重きを置いた階段が後の増築であるとはどうしても思えない。


 いずれにしてもモダニズム建築としてこの建物の価値はなかなか高いものがあると思うのだが、今のままでは突然壊されて跡形もなくなることは充分考えられる。何とか改修して再生する手立てはないものだろうか。

(2012/11/10)